日本で最初に金が採れたとする
陸奥の国の小田郡と
下野国の武茂郷。
史料を粗読みして
どっちが先か推理してみた。


砂金掘りについての書物や資料を、多少でも持っている人なら
誰でも見聞きする、日本で最初に砂金が採れたとする
陸奥の国の小田郡(宮城県の涌谷町あたり?)と
下野の国(砂金地としては、栃木県の武茂)の地名。

両方とも日本で最初と自慢するが、本当はどっちだろう?

今まで、色んな本や資料で目にしていた年表だが
漠然と、「昔の事だから真偽も怪しいし、どっちでもいいや」
と思っていたが、
ちょうど閑だったので、一つに纏めて時系列で考えてみた。

日本で最初の産金に意味があるかどうかは別にして…。

当然、本物の古文書を手にとって読めるはずもないし
難解な漢文の書物を目にしても読解できないのは明白なので
手元にあった砂金に係わる書籍や、
展示会資料、web資料から抜粋して年表を作ってみた。

下の年表をクリックすると、読めるサイズの画像が表示されます。



皆が知ってる通り、歴史の根拠とされる文書は、
平安時代に編纂さられたという
『続日本記』(しょくにほんぎ)と、
大仏の鍍金に最初の金を使った縁で記録が残る
『東大寺要録』、平安時代の私撰歴史書の『扶桑略記』

武茂郷が天平19年(西暦747年)12月で最初とする根拠は
『東大寺要録』の記載。

小田郡が最初とされるのが『扶桑略記』と『続日本紀』。

『扶桑略記』、天平21年(749年)1月4日に、
百済から来た敬福さんが
小田郡から日本で最初に黄金を採って、黄金900両進むとある。
※進むというのは、採掘順調という意味だろうか?
 まさか、奈良に向かって歩き出したというわけじゃないと思うけど…。


『続日本紀』に、同天平21年2月22日、
陸奥の国小田郡から砂金が採れたと知らせが届き、
同年4月1日に金の発見を悦び
元号を「天平」から「天平感宝」に改め。
砂金の現物900両が、4月22日に朝廷のもとに届いたと読める。

そもそも、滅亡した百済から来た王族の末裔とされる
敬福さんら採金の技術者集団が、
辺境の地みちのくに派遣されて砂金を掘り当てたとはいえ、
900両は約13kgだからすごい量。

もし、武茂郷で砂金が出たとされる天平19年12月に
同時に、小田郡で砂金が採れ始めたと仮定すると
天平21年2月22日に、900両ストックするまで、約14ヶ月。

もしも、正月の段階で既に砂金が溜まっていて、
砂金の選別やら、宮城県北の山里から奈良の都まで
どうすれば、安全に運べるかを準備していたとすると、
実質砂金を掘った期間は12ヶ月強。

何人の集団で砂金掘りに従事したか分からないが
後々はともかく、試掘のような段階では、
周辺の農民を強制労働のように集めたとは思えない。

数人規模で、何グループかに分かれて
色んな沢や川を掘りあげて、本気で浚ったとしても
2〜3年はかかったのではないかと推測するが、
真実はどうなんだろうか。

重機はもちろん、ゴム長もウエーダーも、
箱メガネも無い時代だし
しかも、北国の里川から、よくも大量に探し出したものだ。

当然、ダムもない時代だから、里川の流れを変えながら、
川底はもちろん、湿地帯から畑の下まで
徹底的に掘りあげて岩盤を洗ったのだろうが
凄い労力に違いない。

武茂郷が、日本で最初の砂金地としている根拠が
『東大寺要録』の12月の記載らしいから無理があるかも。

採れたのは事実だとは思うが、
日本初と主張するのは説得力が無い気がするが、
みなさん、どう思いますかね?

みちのくの入口にあたる八溝や那須の辺りでも
伝聞で、産金の噂が広まりだした天平19年頃に、
「だいぶ北のほうで、砂金ってものが採れたってよ〜」
「俺らも武茂川の岩盤の窪みを掘ってみんべよ!」なんてね。

砂金を寄進すると、地域が免税になったり
功労を認められて報償が与えられたりで、
その後は、全国的に砂金が確認されて
産金ブーム寄進ブームになったんじゃないだろうか。


     ****************

せっかくの休日なのに、
台風襲来で、外遊びも出来ない退屈な一日だったので
素朴な疑問から、こんなページを作って遊んでみました。

砂金史研究や歴史に関する知識はほとんどありません。
記した文面に、事実誤認等がありましたら
メール等でご指摘いただければ幸いです。

参考資料:転記書籍・資料
【アグネ技術センター】みちのくの金−幻の砂金の歴史と科学−
【栃木県立なす風土記の丘資料館】那須のゆりがね−産金の歴史−
【華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ】聖武天皇略年表
【日本古代史料本文データ】続日本記・東大寺要録


2010.10.30


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